• 1977年5月15日生まれ(38歳)
  • 1990年に成蹊中学に入学。中学・高校・大学と成蹊学園で10年間を過ごす。
  • 2000年に成蹊大学経済学部経済学科卒後、大手人材サービス会社で営業職として勤務。その後、人材ベンチャーの立ち上げを経験。営業部長職を務める。
  • 2007年、30歳の時に幸福の科学グループに入局。2009年、幸福実現党立党時には第45回衆議院選挙山形3区に出馬。
  • 2010年から本格的に政治・経済を学ぶべくHS政経塾に第1期生として入塾。
  • 2012年には中東・イスラム研究の一環でエジプト・カイロへ留学。カイロアメリカン大学アラビア語集中コース修了。
    現在、幸福実現党山形県本部副代表を務める。

血液型

A型

家族

山形県鶴岡市出身の妻と2人家族

尊敬する人物

西郷隆盛、リンカーン、田中角栄

モットー(座右の銘)

「人生に敗北はない」「そのことはできる、それをやる、と決断せよ。それからその方法を見つけるのだ。」

趣味

サッカー、サーフィン、読書、映画

好きな食べ物

ラーメン、ピザ、チーズ

好きな本

「常勝思考」

好きな映画

「リンカーン」「スタートレックシリーズ」

生い立ち

幼少時代

私は幼少から社会に出るまで、とても理想的な家庭に生まれ育ったと思います。
両親はともに仲良く、何かにつけても一緒に行動する家庭でした。
毎年夏恒例の家族旅行は子供ながらに心待ちで、家族やいとこと遊んだ記憶は今でも鮮明に覚えています。
12歳からは両祖父母、叔父・叔母の世帯との3世帯同居で、家が留守ということがほとんどなく、いつも誰かが待っている賑やかな家でした。おかげで大人になるまでプライバシーはほとんどありませんでしたが・・・。私の人間好きで、人を疑わない性格は、賑やかで温かい家族のおかげで形成されていったのかなと、政治活動を行う今更ながら、家族や親族に感謝する次第です。

一方で、子供の時はとてもおとなしく、引っ込み思案。人前で話したり、先頭に立って引っ張ったりということは大の苦手な子供だったなぁと思います。現在の私を知る人に子供時代の私のことを話すと、みなさま一様に驚かれます。

家庭ではとても自由に育ててもらった記憶しかありませんが、唯一、私と父の日々の約束事がありました。
それは「読書」です。
父は毎日、出勤前にしおりを2つ挟んだ課題図書を渡し、「ここからここまで読んでおくように」と私に一言添えて行きました。
それを素直に守った私は、いつの間にか本が大好きな子供になっていました。
物語は「十五少年漂流記」や「三国志」「シートン動物記」などがお気に入りです。
特に偉人の伝記集は何度読んだか分からないほどで、歴史人物事典などを毎朝トイレに持ち込み読み込んでいたことを、今でもよく覚えています。
子供ながらに、日本と世界の偉人を近くに感じながら、様々な偉人への憧れを抱いていたように思います。

中学高校の頃はスポーツに熱中し、勉強を疎かにすることは多々ありましたが、読書好きは変わりませんでした。読書の習慣がつくよう育ててくれた父には感謝の思いしかありません。

学生時代

10代の頃を思い返すと、スポーツと映画に彩られた青春時代だったように思います。

成蹊中学に入学して入った部活はサッカー部。その中で私が選んだポジションはゴールキーパーでした。
ゴールキーパーはえてして損なポジション。自分で点を取ることはできないし、点を取られればキーパーのせいにされることもしばしばです。何をやっても批判されてしまう政治家ともかぶる部分があるようにも思います。
しかし一方で、いなければチームも成り立たず、危機の時にチームを救うのはキーパーの使命。
国と政治家の関係に似ているように思います。

サッカー部時代に今でも脳裏に深く刻まれているのが中学の恩師のこの言葉。
「かっこよく横跳びでセーブするのが決していいキーパーではない。的確な指示で守備陣を動かして、シュートが来ても、正面で確実に取ることができるのがいいキーパーなんだ。」
派手さを好む傾向のある私を、今でもたしなめてくれるのがこの言葉です。
また、「始動はゆっくり、移動は早く」というゴールキーパーの鉄則。
「しっかりと状況を判断して動かず、出ると判断したら全力で動く」
何か「風林火山」を彷彿とさせますが、政治家を目指す今でも、これまた思い返すとハッとさせられる格言です。

高校時代に熱中したもう一つのスポーツ。それはサーフィンです。
サーフィンの魅力は何といっても自然との調和と自由さ。いい波を求めて行ったサーフトリップも若かりし日のいい思い出です。

そんなサーフィンも数年ぶりに復活!地元・酒田の近くにサーフィンが出来るビーチがあるのです。
辻立ち前の早朝に行う私の健康維持法であり、最大のストレス解消法。見かけたら是非声かけて下さい!

社会人

引っ込み思案だった(と自分では思ってますが)私が自分の中で本当の意味での自信が積み重なってきたのは、社会に出てからだったように思います。
私が選んだのは営業職。我が家は祖父、父、私と代々営業家系で、何かの宿命なのかもしれません。
その中で、身を投じたのは人材派遣、人材紹介など人材ビジネスと言われる業界でした。
サービスの対象となるのは「人そのもの」。まさに人と人の間に立って、企業側と就業者側の感情的なもつれを解消するなど、契約・条件面での不一致を上手く補っていくような仕事です。
おかげで企業や社会のいろいろな姿を垣間見ることができました。企業にとっても、就業者にとっても、私は愚痴や不満、クレームなどを訴える唯一で格好の相手です。日によってはサンドバッグのように叩かれ続けることも・・・(笑)
しかしその時期に私が考えていたのは、「天気よりも変化しやすいのが人の心。でも、世界で一番信じられるのも人の心」ということです。
就業者と企業が共に満足し、双方から感謝を伝えられる時には、その喜びもひとしお。「他の部署に紹介してあげる」とか「城取さんの評判を聞いて他社の派遣スタッフさんが移籍したいって」といった話を頂くにつれ、実社会も人と人のつながりによって成り立っているのだと再認識させられました。今思い返してみればストレスフルな日々でしたが、おかげさまで人の話を聞く姿勢、批判に強い自分を作ってくれた仕事であったことも事実です。
まずは腰を低くして話を聞く。政治家を目指す私にとって、大事な姿勢を教えてくれました。

また、ベンチャーの創業期立ち上げに携わったのも20代の頃。同じ人材ビジネス業界でベンチャー立ち上げに加わった先輩についていき、最終的にはそこで営業部長として仕事を任されることになりました。
ベンチャーでしたので、営業以外にも人事や採用、広報など、いろいろとやらせてもらう経験を積むことが出来たことが、今の私の血肉になっています。まだ若くて未熟だった私にいろいろまかせて頂いた社長に、とても感謝しております。

政治家を志すきっかけとなった30前後の転機

そんな充実した20代を過ごしながら、順風満帆な未来ビジョンと共に、「このままでいいのかなぁ」という釈然としない思いが混在していたのが28、29歳頃です。
仕事も趣味も人並み以上にやってきて、ふと立ち止まってみたくなったのかもしれません。
とはいっても、私もまだ普通の若者と同じく、政治にそこまで関心のない人間で、街頭でやっている演説などに耳を傾けるようなことは一切ありませんでした。
ただ、おぼろげながらも、「自分のために生きてきた今までを一新し、より大きなもの、公のものに奉仕したい」という気持ちがわいてきました。30歳に近くにつれ、その思いは日増しに強くなったのです。
そして30歳の時、これまでの仕事を捨て、孔子の「三十而立(30にして立つ)」という論語の言葉に背中を押してもらいながら、清水の舞台から飛び降りる思いで、幸福の科学グループへの入局を決意しました。

私の意外過ぎる宗教家への転身に周りの友人たちをはじめ一同、驚きを隠すことはできませんでした。人によっては、「早まるな」と一生懸命止めて下さる方もいました。
しかし、当の私自身は全くぶれることなく、自分の進もうとしている道は正しいという一念で突き進みました。

その後は新しい縁と新しい経験に満ちた日々となりました。
現在の活動拠点である愛すべき山形県庄内との縁を頂いたのも、そこで生涯のパートナーと知り合うこととなったのも、この決意がなければ縁を結ぶことはなかったでしょう。
また、新たな環境で全力を尽くしながら、その中で自分の使命とは、生まれてきた意味とは何なのかということを探求し続けました。

その一環として、今まで勉強を怠ってきた政治や国際情勢などにも関心領域を広げていくようになりました。
「日本は国防的に深刻な危機の中にある」
「強かった日本経済もまだ立ち直れず、その見通しも立たない状況にある」
「日本の政治家の多くは、自分の議席を死守するために、有権者の関心を得るような政策を訴え、日本の未来を真剣に考えていない」
新たなことを知るにつけ、関心の浅かった政治がグッと身近なものとなり、若者の無関心、政治嫌いがいかに日本の未来に大きなダメージを与えるかということを痛感させられました。

そのように政治や国際情勢について学びを深めていた時期、ある事件が起こりました。
それが2009年4月の北朝鮮の核ミサイル実験です。
テレビのアナウンサーたちはこぞってミサイルを「飛翔体」と呼び、時の首相は「自分の権限を超えている」と狼狽えながら、国のトップとしての権威を失墜させるような発言をなされました。

それまで私は「愛国心」というものを強く意識したり、外に出したりする人間ではありませんでした。
しかし、今から思えば、私が子供の時から読み親しみ、憧れた数多くの日本の偉人達への尊敬、敬慕の念が、私の中で脈々と流れていたのです。「国は人なり」という言葉通り、その偉人・英雄たちがつないできた日本という国を、この危機の時代に生きる我々自身が守り抜かねばならない。私の中で、歴史の中の日本と、今の日本が一つにつながった瞬間でした。「国防の危機」を機縁とし、私の「愛国心」と「政治家への志」が表面にありありと出てくることになったのです。

奇しくもその翌月、日本存亡の危機を脱し、新たな国づくりを行うために、幸福実現党が立党しました。私は迷うことなく党に身を投じ、政治家への道を歩む決意をしたのです。

HS政経塾生時代

幸福実現党が立党するも、選挙というものが良くも分からない中、志と情熱だけでがむしゃらに駆け抜けた2009年夏の衆議院選挙。
私自身も山形県3区で立候補し、正しいと思うことを訴え続けましたが、本当に政治家となるには勉強も見識も足りないことを痛感致しました。

「もっと、本格的に政治家となるために必要な勉強をしたい!」

その思いが湧きあがっていた最中、幸福の科学グループでHS政経塾というプロの政治家・財界人養成機関の発足が決まりました。
私は意を決して、HS政経塾の門を叩きました。
おかげで当時100名以上の応募があった中、幸運な事に定員6名の狭き門をくぐり抜けることが叶い、第1期生として入塾が認められたのです。

私はHS政経塾で政治家の使命と心構えを本格的に叩きこまれたと言っても過言ではありません。
政治哲学、経済哲学、宗教思想から始まって、外交、安全保障、経済、金融、農業、社会保障など、3年間に渡って幅広い分野において、文字通り寝る間を惜しんで勉強させて頂きました。
今の政経塾で許されることか分かりませんが、当時家に帰る時間が惜しく、10日間も泊り込んで勉強していたら、スタッフの方から「この部屋、何か男臭いですね。しっかり換気してください」と小言を言われたことも・・・(笑)

HS政経塾生3年目には自らのライフワークとして、中東・イスラム研究とアラビア語の習得を志して、エジプト・カイロに留学。カイロ・アメリカン大学でアラビア語を学びつつ、アメリカを中心に、世界中の学生や現地の友人たちと交流をしながら、国際的な感覚を磨く稀有なる機会を頂くことが出来ました。
この留学期間を通じ、日本では一般的にはなじみの薄い中東やイスラム圏に精通した数少ない実務家となろうという決意が固まりました。
そして日本をもっと積極的に世界を引っ張るリーダー国家とし、中東イスラム圏と欧米圏の橋渡しをするような大きな仕事を成したいという「夢の創造」ができたと思います。

このHS政経塾で過ごした3年間は、今までの私にとって、まぎれもなく最良で最高の3年間。この先も「政経塾での3年間があったから」と思える日が何度もやってくると確信しています。
この二度と訪れる事のない「黄金の3年間」を与えて下さった全ての皆様へ、大きな感謝でいっぱいです。

そして、現在

30歳以降の私は、妻の出身地ということもあってご縁を頂いた山形県庄内地方で、地道な草の根活動をさせて頂いております。
小学生の頃、夏休みになると「お父さん(お母さん)の田舎に行くんだ~」と言って東京を去る友人が多く、実家が東京だった私には帰る田舎があるということを羨ましく思っていた記憶があります。

そんな私にも、心の故郷であり、世界で一番落ち着く場所が出来ました。
今でこそ、飛行機で東京から戻ってきて、自然の香りを嗅ぐと「あ~、戻ってきた」とホッと出来る場所。
自然が豊かで、食べ物は何を食べても美味しくて、何よりも「人」が素晴らしい土地柄です。

「ここから世に立ちたい! そして、ここの人々に早く恩返しをしていきたい!!」

そんな思いで動いているのが、私のもう一つのお気に入りの場所、中東、そして世界中と山形をつないでいくようなプロジェクトです。
初めて立候補した7年前から感じていた「山形の一番の強みは何といっても『食べ物』だ!」という思いを、本格的に事業化しようと構想しています。

2016年2月には中東で最大の食の見本市、ドバイ・ガルフードに参加し、具体的なビジョンもありありと見えてきました。

構想7年、歩みはまだ遅いものの、私のライフワークとして、この「恩返しプロジェクト」は必ず断行してみたい! そんな思いでいっぱいです。

そして近い将来、ここ庄内、そして山形県を代表出来るに相応しい、皆さまが誇りに感じて頂けるような政治家を目指して、一歩一歩頑張っていく所存です。